誰かの記憶

2007年7月16日 (月)

竹林の里で

 山道をバスは走る。その日はとても天気が良くて、日が燦々と降り注いでいた。
 僕はバスに揺られながら、今がどこか遠い日の夢でも見ている感覚に暫し戸惑ってしまう。
 でも、これは明らかに現実だ。竹林を抜けるとバス停がある。乗客は僕をのぞいて誰もいない。静かすぎる昼下がりだった。
 バス停で降り、しばらく行くと、村が見えてくる。新緑の覆う山々がきれいだ。ここへ来るといつも心が洗われる。
 早乙女達が田植えをしている。ここは女ばかりの村だ。彼女たちは僕と目が合うと頬を赤らめて、伏せるように会釈し、挨拶をした。
「主(ぬし)様、ごきげんよう。」
「主(ぬし)様、お久しぶり。」
 僕は彼女たちに微笑みで返す。連なる田圃が終わると菜の花の咲き乱れる畑が続く。
 畑のそばには老婆とその孫娘、孫娘の母が畑仕事をしていた。
 老婆のそばで遊んでいた5つくらいの少女が僕に気づき、走ってきた。
「主(ぬし)様、どうなすったの?こんな急にいらっしゃるなんて。」
 少女は無邪気な瞳でそう問いかける
「ちょっとね。ここに来たくなったんだ。」
 少女の目線にあわせ、かがんで返事をしていると、少女の母が顔色を変えて走ってくる。
「申し訳ありません。おそれ多い。これ、礼儀をわきまえて。」
 最後は少女に言いながら、母親は頭を下げた。
「かまわぬよ。子供は宝だ。」
 少しふくれっ面になった少女の頭をなでながら、僕は母親にそう答える。母親は恐縮して、頭を下げ、少女の頭を無理に下げた。
 僕はにっこりと笑い、手を振って少女に別れをつける。
 そうやって、いくつかの畑や田圃を見回りながら、「ここはいい。」と僕はつぶやいていた。
 帰りのバスを待っていると、村の長である「とじ」がゆったりと現れた。「とじ」もずいぶん年を取った。「とじ」は僕の乳母でもある。
 幼い頃、僕はここで育ったのだ。
「○○○○さま。」
 そう呼ぶ声も、幼い頃から聞き慣れた発音、そのままだ。
「これを持ってお行きなされ。」
「これは?」
「とじ」が差し出した手のひらには小さく折り畳まれた紙がある。
「苦虫を封じるくすりじゃ。」
「苦虫って・・・。僕には、今必要ないよ。」
「いんや、必要があるから、ここへきなすったんじゃ。表で何かあったと見える。あまりよいお顔をしておらぬ。 苦虫が出てきておるのが、その証拠。」
 僕は苦笑した。「とじ」には隠せぬ。そう思う。
「わかったよ。ありがとう。」
「いつでもかえって来なされ。ここは御身のふるさとじゃ。」
「ん。そうするよ。心配させて悪かった。」
「いんや。必要があるから、我らはここにおる。おたっしゃでの。」
 そういうと、「とじ」はくるりと背を向けてまたゆったりと消えていった。
 バスが来る。夢のような空間を残して、バスは現実へと帰っていった。
 *「○○○○さま。」は個人名で、私の知っている人と同じ名前です。よくある名前とは思いますが、個人が特定できるといけませんので伏せ字にしておきます。

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